L'Ecume des Jours
ベジフレンチ。ヘルシーでカラフル。美しいは美味しい。画像はクリックすると大きくなります☆
TITLE : 凄い生き物がいる、という感じでした。
いつまでもきちんと感想を言語化できないでいるままに、
なぜか打ち上げの席に呼んでいただきました。(遅刻して。わああ。)
イベントの企画段階から、何人もの知人友人が関わっていて、
なんかとにかくすごいらしい、必ず観た方がいい、と言われていた
イベントです。皆様、ほんとうにおつかれさまでした。
短歌の祈り/詩の言葉
何かを感じたならば、なにはなくとも考えを言語化するべきだと思っています。
言語化した考えが正しいとすれば、こうなるのではないか?
と、言葉に置き換えて初めて仮説を築けるようになるから、
というのは青木淳の言葉ですが、私にも必要な作業です。
瞬時に理解できなくとも、とりあえず今は丸呑みして後で分解して再構築しようと思います。わからない、と、手放した時点で、なにも出来なくなるのはあまりにも惜しいし、はっきりと言えば愚かです。(経験で予測できるなら、選ばなくてもそれはそれでもちろんよろしい。えらそう。でも本当。)私はわりに鈍いので、わからない、ということがわからずに、気がつけば手を出していたり丸呑みしてみたりすることが多いです。怪我することも多いけれど、それはそれでよくも悪くも得るものがあります。経験を積んで予測できる危険は避けるけれど、それでも理屈でなく体で覚える衝撃というのは、どんなに大人になってもある経験です。
伊津野さんの朗読とは、そんな風に出会いました。
なにこれ?なんだこれ??おなじ生き物??このものすごい才能が、おなじ生き物????とても乱雑で簡単で申し訳ないのですが、「びっくり」しました。ぽかん、て、口が開いてたかもしれません。休憩時間になって、隣りの友達にはじめに話した言葉も「びっくりした」でした。おなじいきもの?ほんとに???
なんだかよくわからないけど、すごい。
と、思ったものに出会うと、頭の中に、まだ観たことが無くて作ったことのないお菓子の映像が浮かびます。こういう時に浮かぶのは、料理ではなく、お菓子。色も香りも舌触りも、まだ作ったことのない、私の知らないお菓子のイメージです。いくつもいくつも浮かび上がって、情報を処理するのが追いつかない。耳は朗読を聴きながら、目は伊津野さんを追いながら、ノートにいくつもイメージを描きとめました。白。クリーム。メレンゲ。ソーテルヌ。コニャック。アルマニャックかも。シナモン。ジャスミン。ミント。オレンジフラワー。バニラ。アニス、アニスとコケモモのスペインのお酒。クロッカン。透明。ジュレ。ゼラチン、じゃなくて、アガー。蜂蜜。カソナード。黒い黒い奄美の黒砂糖。まだなにかある、まだなにか私の知らない香りの素材が伊津野さんにあてはまる深い深い素材があるはず、あるはずだけど、わからない、けど、まだなにか、ある。わからないけど、あることだけはわかるから、それがもどかしく、もどかしいから今頭に浮かんだイメージだけは逃がさないように描き留める。映像で浮かぶ、ということは、言葉にできないからなんだろうと思う。言語を司る脳の部分は比較的新しい領域なので、追いつかない分、先に視聴覚で丸呑みしているんだろう。とか今なら思うけど、聴いてる最中はヒューズが飛んだように、目から耳から、そして内側からイメージの氾濫に呑まれっぱなしです。
伊津野さんの朗読は、短歌作品としての質の高さ、ソリッドさ以上に、目の前で彼女の声で歌われる言葉以上の何かが頭の中のどこかに、圧倒的な質量で浸透してくる衝撃でした。息をする間もなく、浸食されて触発される。声は、けして荒々しくはなく、柔らかくか細く優しい声と韻謡です。なにがどうして、こうも頭に響くのかはわかりません。才能、とひとことで言えば終わるけど、ただの才能ではないのだ、ということをどうにもうまく言語化できません。
一番近い比喩は「祈り」だと思います。
西行が「栂尾明恵上人伝」の中で、「歌の心は」と問われて、「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を造り、秘密の真言を唱えるにひとしい」と答える有名なくだりがあります。仏を造るように、祈るように、命を歌う。伊津野さんの歌は、弱い優しい心を持ったまま、峻険な道を一人で行くような、心に刺さる苦しく哀しいものが多く、その歌を生み出した凄まじい心の質量に圧倒されます。それでも、胸苦しいばかりでなく、哀しさに寄り添うように、最後に手のひらの中に灯すろうそくのような、優しい温かい柔らかさがほの見えるから、彼女の言葉に惹かれる人も多いのではないのか。
イベントが終わり、日が経ち、友達が何人も、
感想を言語化していくのを読みながら、
なにがなんだかわからなかった。けど、なにかものすごいものを観た。
という感想から、いまだに進んでいません。
進んでいないけれど、それでも自分の内側で動いたなにかを持っています。
さざ波のように広がって治まってまた泡立つような、なにか、です。
なにかがなんなのかはわからないので、まだ名前は付けずにいようと思う。
友達が感じたように、怖い、とは、思いませんでした。
それは私が鈍いから、だとも言えるし、こわい、以外の別な部分を
もっと触られたからかもしれません。
聴きながら、観ながら、描きながら、いくつもいくつもいろいろな自分の中にある未処理の、未処理、でないならば、とうに片付けた、と思っていたような感情や出来事や情報がいくつもいくつも浮き上がります。言葉にできないままでも、もしかしたらそれらは私が何かを作る力になるんだと思う。この感覚や感情に、馴れないうちに、なにかをつくろう。つかめなくてもどかしいと思ったイメージを何度もトレースして、レシピを描いて、試作して、形にしていこう。
人を、押す、動かす。
才能というのは、そう言うものなんだろう、と思う。
私が今でもくらくらしているのも、伊津野さんの才能にふれた「しるし」なのでしょう。
また、聴きたいし読みたいです。今度、また機会があるのなら、
あの人、あの人に、あの人にも、聴いてほしいな、と、思います。
聴けて、識ることができて、本当に良かったと思います。
渡辺さんについては、また今度〜。
なぜか打ち上げの席に呼んでいただきました。(遅刻して。わああ。)
イベントの企画段階から、何人もの知人友人が関わっていて、
なんかとにかくすごいらしい、必ず観た方がいい、と言われていた
イベントです。皆様、ほんとうにおつかれさまでした。
短歌の祈り/詩の言葉
何かを感じたならば、なにはなくとも考えを言語化するべきだと思っています。
言語化した考えが正しいとすれば、こうなるのではないか?
と、言葉に置き換えて初めて仮説を築けるようになるから、
というのは青木淳の言葉ですが、私にも必要な作業です。
瞬時に理解できなくとも、とりあえず今は丸呑みして後で分解して再構築しようと思います。わからない、と、手放した時点で、なにも出来なくなるのはあまりにも惜しいし、はっきりと言えば愚かです。(経験で予測できるなら、選ばなくてもそれはそれでもちろんよろしい。えらそう。でも本当。)私はわりに鈍いので、わからない、ということがわからずに、気がつけば手を出していたり丸呑みしてみたりすることが多いです。怪我することも多いけれど、それはそれでよくも悪くも得るものがあります。経験を積んで予測できる危険は避けるけれど、それでも理屈でなく体で覚える衝撃というのは、どんなに大人になってもある経験です。
伊津野さんの朗読とは、そんな風に出会いました。
なにこれ?なんだこれ??おなじ生き物??このものすごい才能が、おなじ生き物????とても乱雑で簡単で申し訳ないのですが、「びっくり」しました。ぽかん、て、口が開いてたかもしれません。休憩時間になって、隣りの友達にはじめに話した言葉も「びっくりした」でした。おなじいきもの?ほんとに???
なんだかよくわからないけど、すごい。
と、思ったものに出会うと、頭の中に、まだ観たことが無くて作ったことのないお菓子の映像が浮かびます。こういう時に浮かぶのは、料理ではなく、お菓子。色も香りも舌触りも、まだ作ったことのない、私の知らないお菓子のイメージです。いくつもいくつも浮かび上がって、情報を処理するのが追いつかない。耳は朗読を聴きながら、目は伊津野さんを追いながら、ノートにいくつもイメージを描きとめました。白。クリーム。メレンゲ。ソーテルヌ。コニャック。アルマニャックかも。シナモン。ジャスミン。ミント。オレンジフラワー。バニラ。アニス、アニスとコケモモのスペインのお酒。クロッカン。透明。ジュレ。ゼラチン、じゃなくて、アガー。蜂蜜。カソナード。黒い黒い奄美の黒砂糖。まだなにかある、まだなにか私の知らない香りの素材が伊津野さんにあてはまる深い深い素材があるはず、あるはずだけど、わからない、けど、まだなにか、ある。わからないけど、あることだけはわかるから、それがもどかしく、もどかしいから今頭に浮かんだイメージだけは逃がさないように描き留める。映像で浮かぶ、ということは、言葉にできないからなんだろうと思う。言語を司る脳の部分は比較的新しい領域なので、追いつかない分、先に視聴覚で丸呑みしているんだろう。とか今なら思うけど、聴いてる最中はヒューズが飛んだように、目から耳から、そして内側からイメージの氾濫に呑まれっぱなしです。
伊津野さんの朗読は、短歌作品としての質の高さ、ソリッドさ以上に、目の前で彼女の声で歌われる言葉以上の何かが頭の中のどこかに、圧倒的な質量で浸透してくる衝撃でした。息をする間もなく、浸食されて触発される。声は、けして荒々しくはなく、柔らかくか細く優しい声と韻謡です。なにがどうして、こうも頭に響くのかはわかりません。才能、とひとことで言えば終わるけど、ただの才能ではないのだ、ということをどうにもうまく言語化できません。
一番近い比喩は「祈り」だと思います。
西行が「栂尾明恵上人伝」の中で、「歌の心は」と問われて、「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を造り、秘密の真言を唱えるにひとしい」と答える有名なくだりがあります。仏を造るように、祈るように、命を歌う。伊津野さんの歌は、弱い優しい心を持ったまま、峻険な道を一人で行くような、心に刺さる苦しく哀しいものが多く、その歌を生み出した凄まじい心の質量に圧倒されます。それでも、胸苦しいばかりでなく、哀しさに寄り添うように、最後に手のひらの中に灯すろうそくのような、優しい温かい柔らかさがほの見えるから、彼女の言葉に惹かれる人も多いのではないのか。
イベントが終わり、日が経ち、友達が何人も、
感想を言語化していくのを読みながら、
なにがなんだかわからなかった。けど、なにかものすごいものを観た。
という感想から、いまだに進んでいません。
進んでいないけれど、それでも自分の内側で動いたなにかを持っています。
さざ波のように広がって治まってまた泡立つような、なにか、です。
なにかがなんなのかはわからないので、まだ名前は付けずにいようと思う。
友達が感じたように、怖い、とは、思いませんでした。
それは私が鈍いから、だとも言えるし、こわい、以外の別な部分を
もっと触られたからかもしれません。
聴きながら、観ながら、描きながら、いくつもいくつもいろいろな自分の中にある未処理の、未処理、でないならば、とうに片付けた、と思っていたような感情や出来事や情報がいくつもいくつも浮き上がります。言葉にできないままでも、もしかしたらそれらは私が何かを作る力になるんだと思う。この感覚や感情に、馴れないうちに、なにかをつくろう。つかめなくてもどかしいと思ったイメージを何度もトレースして、レシピを描いて、試作して、形にしていこう。
人を、押す、動かす。
才能というのは、そう言うものなんだろう、と思う。
私が今でもくらくらしているのも、伊津野さんの才能にふれた「しるし」なのでしょう。
また、聴きたいし読みたいです。今度、また機会があるのなら、
あの人、あの人に、あの人にも、聴いてほしいな、と、思います。
聴けて、識ることができて、本当に良かったと思います。
渡辺さんについては、また今度〜。
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COMMENT
すごいいきものです・・・なのか?
いつもうつくしくあたたかいブログを拝見しています。
こんなふうにたくさん感じ、たくさん書いていただき、ありがとうございました。感激です。
izumiさんは、やはりたくさんのことをご存知で、
たくさんの言葉や色をおもちなんだなと改めて感じました。
西行の言葉、よいですよね。
私にとって作品、特に朗読は、お祈りです。
その人によって、いろんな風に感じていいのだと思います。
恐くなる人も、きれいなイメージを持ち帰ってくださる方も、
申し訳ないけれども、苦しくなる人もいらっしゃいます。
アーティストのizumiさんに、お菓子のイメージが浮かんだことも幸福な気持ちです。
いつかいっしょに化学反応しましょう♪
ほんとうにありがとうございました。
いつもうつくしくあたたかいブログを拝見しています。
こんなふうにたくさん感じ、たくさん書いていただき、ありがとうございました。感激です。
izumiさんは、やはりたくさんのことをご存知で、
たくさんの言葉や色をおもちなんだなと改めて感じました。
西行の言葉、よいですよね。
私にとって作品、特に朗読は、お祈りです。
その人によって、いろんな風に感じていいのだと思います。
恐くなる人も、きれいなイメージを持ち帰ってくださる方も、
申し訳ないけれども、苦しくなる人もいらっしゃいます。
アーティストのizumiさんに、お菓子のイメージが浮かんだことも幸福な気持ちです。
いつかいっしょに化学反応しましょう♪
ほんとうにありがとうございました。
izumiさんのブログでいつのえみさんと再会できるとは夢にも思っていませんでした。
(誤解なきよう申し上げると、私個人の一方的な再会です)
あるMLで存じ上げておりました。あのころ、私も短歌にどっぷり。
あれもこれもこれからやるぞというときに短歌から離れざるを得ない、身を切られるようなことが次々待ち受けていました。
短歌ではなかったのですが、朗読は私のライフワークと自負していることでもあります。
いつのさんのお名前をまたここでお聞きし、
izumiさんの罅割れそうなくらいのsensitiveな響動に、思わず涙が出そうになりました。
コメントを残すか迷ったのですが、いつかまた、いつのさんの朗読にいつかまた、必ず耳を傾ける時を持つことを自分に約束するために、ひと言残させてください。
(誤解なきよう申し上げると、私個人の一方的な再会です)
あるMLで存じ上げておりました。あのころ、私も短歌にどっぷり。
あれもこれもこれからやるぞというときに短歌から離れざるを得ない、身を切られるようなことが次々待ち受けていました。
短歌ではなかったのですが、朗読は私のライフワークと自負していることでもあります。
いつのさんのお名前をまたここでお聞きし、
izumiさんの罅割れそうなくらいのsensitiveな響動に、思わず涙が出そうになりました。
コメントを残すか迷ったのですが、いつかまた、いつのさんの朗読にいつかまた、必ず耳を傾ける時を持つことを自分に約束するために、ひと言残させてください。
メッセージありがとうございました。
朗読がライフワークで短歌もなさっていらっしゃったのですか…
どこかできっとお会いできますね。
その時は、お声をかけてください。
私ももう少しがんばってゆきます。
朗読がライフワークで短歌もなさっていらっしゃったのですか…
どこかできっとお会いできますね。
その時は、お声をかけてください。
私ももう少しがんばってゆきます。
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驚きと喜びで書かれた日記だと思います。
いやー、ちょっと嫉妬しちゃった。伊津野さんの感動をお料理に変化できるあなたに。
>それは私が鈍いから、だとも言えるし、こわい、以外の別な部分を
もっと触られたからかもしれません。
にぶいことはないです。
多分私が原始的なんだと思う・・・。